きまぐれ*かざりえ
2008年04月01日
ド=ヌンク 「血の沼」 (1891)
ド=ヌンクは、ぼくが好きな画家の中ではもっとも作品をみる機会の少ない画家です。
ベルギーの絵画、とりわけサンボリストたちが特集された場合などにまれに見ることができる、というような画家です。
ですからそんなド=ヌンクの作品が「文藝春秋」に折り込みで掲載されているのを見つけたときは少し驚きました。1999年の9月号だったと思います。それがこれです。
「血の沼」というと気持ちが悪い印象をもたれた方が多いかもしれません。血の沼、の意味はわかりません。
そんなことより、木々の背後に立ちこめるこの朝未だきの空気の色こそ、ヌンクが終生描き続けた情景でした。そしてぼくらはそれにたまらなく惹かれるのです。
「血の沼」に物語を読む努力は徒労というものでしょう。どうせヌンクの絵には光のふりそそぐ朝は永遠にやって来ないのですから。
関連過去記事
ヌンク(Nuncques)を観てきました
2008年01月05日
バルテュス 「窓辺の少女」(1955)
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バルテュスは友人ジョルジュ・バタイユとモルヴァン山地をドライブしていたとき、偶然シャシーという村で廃屋となっていた館をみつけました。
彼はそれを気に入り、水道と電気をひき、アトリエを構えることにしました。パリの喧騒を離れたかったのです。
数年後、兄であり作家・画家であるピエール・クロソフスキーの妻の連れ子、フレデリックがやってきました。15歳でした。
それから7年間、フレデリックとバルテュスは30匹の猫と一緒に共同生活を営みました。
「窓辺の少女」のモデルはフレデリックです。この絵に見られるように、バルテュスはシャシーで穏やかな自然の光を発見しました。
彼は自然光にこだわった画家で、アトリエでは電灯を点けず窓から入る光のみで制作したといわれています。死後、ヴェネチアで開かれた回顧展はすべて自然光で鑑賞するという、この上なく贅沢なものでした。
自然光へのこだわりは、もしかしたらこのシャシーでの創作において感覚に染みついたものかもしれません。それほど、それ以前のパリ時代のものと比べると光の描き方が変わっているように思われます。セザンヌのように、絵が光り出すのです。
手前でバルテュスが足を組んで腰掛け、美少女フレデリックがこの絵と同じ位置にいてこちらを振り向いている写真があります。雑誌「ライフ」のものですが、「窓辺の少女」をモチーフとして意図的に撮られたものだと思います。芸術新潮のバルテュス追悼号にも載っています。興味のある方は図書館でバックナンバーを探してください。
2007年08月06日
エドワルド・ムンク「インゲルの肖像」 (1884)
リチャード・ダッドの作品の次にムンクを載せたら、ある人から「また気が狂った画家ね」と言われました。
実は、言われるまで気がつきませんでした。たしかにムンクは精神病院に入院していますね。
しかしダッドの狂気とムンクのそれとは、同じものではないと思います。ムンクの場合は、元々傷つき繊細だった神経に、痴情のもつれが重なり、それで一種の神経衰弱に陥ったのです。
彼は恋人にピストルを打たれ左の薬指を失いました。
急に思い出しましたが、ランボーも痴情のもつれでヴェルレーヌの銃弾を左手首に受けています。
このような場合、なぜか銃弾は急所を逸れ、手などに当たるのですね。
話がそれましたが、
「インゲルの肖像」はムンク21歳のときの作品。インゲルは彼の妹です。
インゲルはこの後も作品「死の部屋」で家族の臨終に立ち会う場面で蒼白の顔面で登場します。
また単独で何度かモデルになっています。版画も数点あります。
しかしこのように楚々たる若々しさに満ちた彼女の肖像は以降描かれていないようです。
後になって「女の三相」や「生命のダンス」で清純な処女が象徴的に描かれますが、このような理知的な表情は視られません。
なにしろ画家も若いのです。特に目が、若い画家の描き方だと思います。目がこの作品の印象を支配しています。
*
東京で秋にムンク展があるそうです!関西は来年。
http://www.tokyo-np.co.jp/event/bi/munch/
2007年06月17日
リチャード・ダッド 「妖精のすみか」 (1841)
訂正:この作品が描かれたのは1841年です。表題に1941年とありました。間違いです。リチャード・ダッドは1817年に生まれた英国の画家です。
彼は早くから才能を発揮し,数々の優れた作品を描いていました。
ところが20代の半ばから精神を病み,26歳のとき発狂し父親を殺害してしまいました。
散歩に誘い出し,公園でナイフで刺し殺したというのです。
直後フランスへ逃走しようとしましたが,途中でまた人を殺そうとして捕まりました。
その後,69歳で亡くなるまで,精神病院で絵を描きながら過ごしたそうです。
精神病院で描いた「お伽の樵の会心の一撃」が彼の代表作となっています。この絵はいろんな解釈がされていますが,とにかく,「空白恐怖」と言うのでしょうか,画面を埋め尽くさずにはいられないというふうな構図になっています。
「妖精のすみか」は24歳のとき,つまり発狂する前の作品。
この作品も「空白恐怖」とまではいかないものの,ひとつも動かすことができないほど完璧すぎる構図です。
僕はこの作品の,楕円の画面の中に背中を丸めた“妖精”が収まる構図を見ると,アングルの作品「トルコ風呂」を思い浮かべます。「トルコ風呂」は真円の画面の中に裸の女たちが「お伽の国」さながらに様々な姿態でのけぞっている様子が描かれており,構図としてはまさにこちらも完璧です。
アングル(1780-1867)の「トルコ風呂」は1863年です。真相は不明ですが,アングルがダッドの「妖精のすみか」を見て密かに影響を受けたのかも?という想像は楽しいものです。
2007年04月03日
靉光 「楽園」(1940)

靉光(あいみつ)は昭和の初期に活躍した日本の画家です。
彼は1944年の5月に中国に出征し,運良く死なずに1945年の8月15日を迎えたにもかかわらず,その直後から胸膜炎と赤痢を発症し,1946年の1月に上海で亡くなりました。38歳ということですから,若いですね。
彼は制作において実に様々な取り組みを試みています。器用だったのでしょう。だから「個性的」な作品が多いのですが,その個性を固めきるには生涯の時間が足りなかったように思えます。「無言館」の画学生たちとはまた少し違った意味で無念だったことでしょう。
靉光の作品を今年は各地でみることができます。
今は東京国立近代美術館。そのあと宮城,広島と巡回するそうです。
http://www.momat.go.jp/Honkan/AI-MITSU/index.html
(「楽園」は2006年の11月から掲載していました)
1998年 靉光展の画集
とてもよい展覧会でした。

2006年08月20日
エドワルド・ムンク 星月夜 (1893)
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「星月夜」というとゴッホのシリーズがあまりにも有名ですが、ムンクの同名の作品はゴッホ(星月夜−糸杉と村−)の約4年後に描かれています。
ムンクがこの作品を描く時点で、ゴッホの作品の存在を見ていた、知っていた可能性は、分かりませんが、たぶんないと思います。
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ゴッホの「星月夜」は星々の光が渦巻きとなって夜空を流れています。少し狂気じみていて、ありえないと思われるほど大胆な夜空の描写です。“ルナ”ティックな精神状態をそのまま描いたかのようです。
調べてみるとこれはやはりサン・レミの精神病院で描かれたものでした。
一方ムンクの「星月夜」は夜の静寂に包まれた情景です。月が見えません。月夜の明るさというよりムンク特有の白夜の薄明に近いです。まるでベルギーの画家たちが好んで描きそうな情景です。
しかし、黒い塊のように描いた木々の表現は、少し不気味です。
そしてフィヨルドの海岸線のうねりは「叫び」でも使われているように、ムンクが繰り返し描いた構図で、この黒い木々の塊と同様、不安で粘的な精神状態を表しているように感じられます。
実はこの作品が描かれた1893年頃というのは、ムンクが「叫び」を含め、初期の傑作を立て続けに創作した時期なのです。
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他には「死と少女」、「思春期」、「声」、「マドンナ」、「吸血鬼」など、いわゆる<生命のフリーズ>のなかの<「愛」の連作>です。
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木々の黒い影は「思春期」の少女から延びる影と同じものなのかもしれません。「思春期」はその習作デッサンでもその影だけは執拗に描かれています。そして習作の中には「夜に」というタイトルが与えられているものもあります。
「叫び」もそうですが、この時期の作品は、「マドンナ」や「死と少女」では胎児や精子が描きこまれたり、少々常軌を逸した表現手段が使われています。ムンクがコペンハーゲンの精神科に入院するのはそれから10年以上も後の1908年ですが、この時期も、ある種の狂気が創作に駆り立てていたのではないでしょうか。
「星月夜」はこの時期の<「愛」の連作>の制作のただ中で、ほとんど唯一人物が登場しない作品ですが、ゴッホのルナティックで爆発的な「星月夜」とは対照的に、神経をクールダウンさせているように思えます。
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さて、ムンクはこの作品の約30年後、1923-24年にもう一度「星月夜」という作品を描いています。
ここにはもう若い頃の不安な心情などなく、北欧の美しい夜を描いている、と思いきや、またしても画面手前に2人の人間から雪原にのびる影が描きこまれています。
習作の木炭画ではもっとはっきりと2本の影が描きこまれていますから、人間の影であることは明らかなのです。
最初の「星月夜」から3年後、1896年のリトグラフ作品「魅惑」では「星月夜」の構図に、一組の男女が描かれていました。
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後期「星月夜」のこの一対の影は「魅惑」の男女でしょうか。
どうやら、生命のフリーズ<「愛」の連作>は、ムンク60歳になっても完成していなかったようです。
2006年06月27日
ジャック・プレヴェール 潮の満ち引き

プレヴェールと聞いて映画『天井桟敷(Les Enfants du paradis)』や、シャンソン『枯葉』に思いあたる人は文学通といってよいのでしょうか。
でも彼が絵画作品も残していることを知る方は少ないのでは?
とは言っても、彼の作品はほとんどが大家の有名な絵画や、手近な絵はがきや写真などのコラージュ(貼り合わせ)です。
しかしそこに文学者ならではの諧謔や風刺の精神が利いています。
「潮の満ち引き」はいかにも美しい作品ですが、どなたかの夜の海辺の絵に、仰向けに寝ている女性の絵を切って貼り付けたものだと思います。
作品の意味は説明するまでもないと思います。
ところで、この作品では月光が海に輝くのがきれいです。
ムンクの絵画では「月の舌(moon tongue)」は官能の象徴として多くの作品に描きこまれています。
僕がよく見ているギリシャのサントリーニ島のウェブカメラで、とてもきれいに月の舌が写っていたことがあります。
このウェブカメラは何年見続けても飽きません。
今の季節だと東京の午前11時〜12時ころに夜が明けます。こちらの深夜に夕暮れの海が見られます。
サントリーニ島 santorini.net
http://www.santorini.net/home.html
同上 カルデラ・ビュー
http://www.santorini.net/caldera.html
同上 ヴォルケーノー・ビュー
http://www.santorini.net/volcano.html
2006年05月08日
ポール・セザンヌ,りんごとナプキン
セザンヌが長くなりました。
飽きましたので、とりあえず、絵だけさしかえました。
この作品やセザンヌについてはそのうち時間ができたら、あれやこれやと書こうと思っています。 
2006年03月06日
アウグスト・マッケ,チュニス近郊のサンジェルマン(1914)
2月28日にパウル・クレー展に行って来た。最終日の閉館30前にすべりこんだ。
1914年、マッケとのチュニジア旅行で描いた作品が数点あった。
マッケがロバに乗っている写真もあった。マッケの顔を見たのは実は初めて。
マッケはドイツ表現主義の画家たちの中、ただひとり明るい色彩、抒情を天賦された画家だった。坂崎乙郎はマッケを、「ドイツの永遠の恋人」と呼んだ。(『夜の画家たち』)
チュニジア旅行は、クレーが“色彩の魔術師”へと変貌を遂げるきっかけとなったと言われているが、たぶん彼にとっての“チュニジア”とは、マッケとの思い出がすべてなのだと思う。
チュニジア旅行のすぐあと、マッケは召集され戦死してしまったのだ。27歳。
その2年後、朋輩フランツ・マルクも戦死。36歳。
約1000万の死者を出した戦争は、この不世出の2つの才能を、2/10000000という数字に変えた。
しかしパウル・クレーの絵画にはふたりの魂、とりわけアウグスト・マッケは色彩において、フランツ・マルクはフォルムにおいて、受け継がれ息づいている。これはぼくが気に入っている妄想。
2006年02月26日
ジュール・パスキン, 少女−幼い踊り子(1928)
パスキンは1885年ブルガリアで生まれたユダヤ人。アメリカで国籍を取得し、中米、北アフリカ、そして全ヨーロッパを放浪し、晩年パリに住み着き、1930年に45歳で自殺した。
放浪の画家である。彼も“ディアスポラ”だ。
“PASCIN”はフランス語では“パスカン”と読むが、彼はパリでも“パスキン”と名乗っていた。
世界を放浪しながらも、彼は肖像画ばかり描いている。
どのモデルたちも、水に映る木漏れ日の斑模様のなかにたゆたうようで、フランス人は「愛撫する光」などと言うが、みな儚げで、彼の旅暮らしの性分がにじみ出ているように見える。
この絵のような繊細で美しい作品も多いが、一方で春画のような作品、倒錯した性をモチーフとした作品なども数多く残している。
この絵は晩年のパリで描かれている。
毎日が飲めや歌えやの乱痴気騒ぎだったらしい。しかし筆の衰えは見えない。
「人は45を過ぎて生きるべきではない。芸術家ならばなおのことだ。」といい、「愉快な死に方をしたいものだ」と、しばしば漏らしていたという。まるでミシマみたいだ。
『チャタレイ夫人の恋人』で知られるD.H.ロレンスもパスキンと同じ年に生まれ45で死んだ。ふたりともエロスを追求した作品を多く残していることで、しばしば比べられる。










